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第二創業に向けての覚書

2011年10月より公務員学院は新校舎に移転します。

この移転は単なる引越しに留まらない付加価値の創造を期して
決意したことは言うまでもありません。
時代の要請に応えるべく、いわば「第二創業」の意気込みです。

しかし、公務員学院が本質的に生まれ変わる訳ではありません。
あくまでも時代の要請に一層応えるため、増床空間を本質の更なる深化に
当てて行こう、その深化に費やすエネルギーは第二の創業と言えるほどの
意気込みと緊張感を持たなくてはと自戒しているところです。

では何が公務員受験学院の本質であり、その土台に果たして何を
創業していこうとしているのか、おぼろげながらもここで一度
考えてみようと思います。

1997年、私が某大手専門学校を退職して、新たに公務員学院を
創業した際に、関係各位にその理念を記して配布した文章がここに
あります。
当時経営素人32歳、理想ばかりがつんのめって、まぁ何を言っているのか
良く分からない面も多々ありますし、今日までの経営実態に照らして
耳が痛くなる部分も無くはないのですが、当時求めた理想と、今日まで
学院を支えてきた基本理念の源流は垣間見ることができますので
恥ずかしながらも、その原文をたたき台に今後の展望を探って行きたく存じます。

「公務員学院の開校にあたって」
-愛される学院づくりを目指して-

平素は我々の教育活動に対しましてご高配を預かり誠にありがとうございます。
この度、我々はこれまでの実績をもとに、ここに公務員受験学院を開校する運び
となりました。開校にあたりまして、ここに改めて我々が目指す教育活動の理念を
述べさせて頂く事をもちましてご挨拶とさせて戴きます。

言うまでもなく、我々は「公務員学院」という、公務員に合格しうる学力を
身につけさせるべく教育活動を目的とする私塾に他なりません。
公教育機関だろうが私塾だろうが、生身の生徒に向き合わなくてはならない以上
真摯な教育活動であらねばならないことに変わりはなく、いや、私塾だからこそ
ごまかしの教育、上辺だけの教育は決して許されないのだという自負心をもって
教育にあたるべきと考えております。

我々は生き残る私塾として、ごまかしではない「生き残る教育」を実践しようと
決意しました。
我々の考えるごまかしの教育とは、上辺だけの教育、それは奴隷教育に通ずる
「教育」に他なりません。

公私にかかわらず我々はこれまでに多くの「奴隷教育」を見て参りました。
社会的特権を馬に対する人参のごとく振りかざし、いけいけやれやれと。

「教育の敗退」なるもののひとつの要素は、教師が生徒たちに精神の愉しみ
なるを十分に伝えていないことに起因すると考えます。

この、理念なき爛熟の時代にあって、学問を処世術としてしか認識せず
体制や制度に寄りかかり、そこに胡坐をここうとする者は既に弱いと考えます。

確かに我々は何らかの意味において制度によって生きていかざるを得ないという
現実からは完全に自由ではあり得ません。しかしそこに寄りかかり胡坐をかいたとき
我々は純粋にして敏感なる若者たとを真にひきつけることは出来ないことを自覚して
おります。

体制や制度を盾に取るようでは「教養」が悲しみます。これでは教養そのものが
その意義を根本から否定することとなりましょう。
「体制」「制度」を取り払ったとき、真に残るものこそが我々の目指す「生き残る
教育」に他なりません。

大賢と大愚の両方の要素を兼ね備えた個々人の集まり、その意味では矛盾に満ちた
我々と生徒たちの関係にあって、決して生徒の大愚の要素に媚びるのではなく
生徒たちの内に潜む大賢の要素を培う努力の中にだけ「生徒の側に立った教育」
があると考えます。

我々はこれまでの体験から、教師が学問の喜びと充実感を伝えることが出来るなら
脅しや管理によってではなく、希望と自律によって生徒たちは学び始めるのだ
ということを確信しております。

教師が伝えるべき熱い何かを持たずに教壇に立つなら、生徒たちが熱い何かを
求めて彷徨い始めることは自然の理であり、むしろそのことが健康的でさえある
と言えます。

我々が目指す教育はあくまでもEducation(=引き出すこと)であります。
そこでは自主、自立の精神を培うべく、人文、社会、自然の諸科学を通して
人間としての良識を模索し続け、ヒューマニズム溢れる教養人の育成を期した
教育が行われなくてはならないと肝に命じております。

我々は自立した人間として、知ること、考えること、選ぶことの喜びを伝えるべく
乾いた活字に潤いを与え、そして生徒たちが我々の授業やその教師の後姿に
「ああ、僕も勉強したい」「あの先生の話を聴きたい」と思わせうる真の教養を
求め続けます。

教師が教養の意義を十分に理解することなく、無味乾燥な表面上の字づらを
叩き込むならば、それは単なる「奴隷教育」であり、これを生徒たちが人生で
最も多感な時期に無抵抗に受け入れ、その結果として合格したにせよ、そこには
飼いならされた客体としての精神しか残りますまい。ましてやその教育の結果
として不合格の生徒たちに対し、我々は不信以上の何も残せないのだということを
自覚します。

我々は人類固有の特質をHumanityと捉え、自主的精神の下でより人間らしく
生きていけるために、教養科目(Liberal Arts)をもってその精神と能力を
耕作(Cultivate)し、かかる精神と能力が最大限に引き出される様活動すること
こそが我々の掲げる教育理念であります。

言うは易く行うは難い・・・。我々はこのことを深く痛感しております。
現実に追われるあまり、理念の呵責に苛まれる毎日の中で、かかる苦悩を癒す
特効薬などどこにもないことを自覚しつつ、ただただ日々研鑽を積み重ね
誠心誠意、単なる「受験屋」に終始することなく、実りある豊かな教育内容を
模索し続けていく所存でございます。

まだまだ未熟な我々ではありますが、今後とも温かいご支援をいただけますよう
心よりお願い申し上げます。

平成9年9月 
公務員学院 
学院長 


全く持って読んでいて恥ずかしい、突っ込みどころ満載の青二才の文面です。
当時は経営者になるという自覚はほとんどなく、正に青二才の教師、しかも
現実のカスタマーとは異なる専門学校専門課程生を相手に奮闘していた経験
からの痛い気な書生の気負いばかりが前面に出てしまった文章です。

しかし、とにもかくにもあれから十数年、現実の経営の下、微調整を繰り返しながらも
札幌公務員受験学院は今日の姿に至っています。
その十数年の歴史の中で、ほとんど意識しなくなったことや、削ぎ落とされた部分もありますが
それでも、経営に迷いが生じた際はやはり初心を確認すべく幾度となく読み返しては自らを叱咤
して来ましたし、今尚厳然と生き残り、むしろその思いを一層深めなくてはと思い直す部分が
少なくはないのです。

教養とは何か。

他の資格試験と違い、公務員試験に教養試験が課され人物試験が課される意義は何か。

ここの部分を上辺に走ることなく一層真摯に向き合い探求して行きたいと思います。


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  1. 2011/09/19(月) 17:19:23|
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